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この批評は2008年8月10日、12日、14日、そして15日に4回目を見た後17日に提出されている。ここに何度も出て来る「制度」「内部」「外部」の意味がヒッチコック論文以降の言葉の使い方とやや異なっているので混乱を招くかもしれない。ここで「制度」とは「であること(道徳・善悪」)の領域であり、「制度の外部」とは「であることの外部」=ヒッチコック論文では「すること」の領域であり、「制度の内部」とは「であること=道徳」の領域そのものを差している。制度からはみ出された異端者は道徳の「外部」=「すること」の領域における「ゆれ」によってコミュニケーションをするしかない、という趣旨のことを書いている。ただ終盤使っている「映画の内部」という青で塗っている言葉は「制度の外部」と同じ意味で使われていて、ここに「外部」と「内部」における言葉の逆転がありこの批評を「難解」なものにしている(笑)。書かんとしていることは、「制度の外部」にいた豊川が小池の「ゆれ」=「映画の内部」に触れることで却って「制度の内部」=「人間性(道徳)」を取り戻した、、ということである。以下は訂正なしにそのまま再出する。
2023年9月13日 藤村隆史。。、、
「接吻」(2008)万田邦敏 映画の「ゆれ」について 2008/8/17
■音へ
豊川悦司の声、「こんにちは、、」、、、そして「ありません」という、何の変哲もない声でありながら、ただならぬ「メッセージ」を伝えているのではないかと思わず寒気を感じてしまうところの生々しい「声」は、あらゆる意味という言う意味を剥ぎ取って、最後に残った純粋な「声」としての裸の裸声が、フィルムの表層に焼き付けられ私の鼓膜を揺らし続ける。万田邦敏は、おそらく「声」で豊川悦司を選んだのだろう、そう思えてしまうほど、声という声が、音という音が、その内容としてのメッセージを凌駕しつつ、声そのものの、そして音そのもののメッセージとして襲い掛かってくる。
夜のアパートのキッチンで、テレビから発せられる豊川の笑いを視線で受け止め、すぐさま押入れから古新聞を取り出して事件を確認し、心を込めたオニギリがウリのコンビニへと駆けつけ、三誌のスポーツ紙と二冊のノートと糊を買い、帰宅してからスクラップを作り始める小池の周囲の空間には、ただひたすら、切られる事で露骨にしわがれた音を出し続ける新聞紙と、それを切る鋏の無機質な音、さらにまた、ペンによってノートに左手で走らせるペンの「カツ、カツ」という音そのものが、剥き出しの「音」として私の鼓膜を揺らし続ける。
テレビから発せられる光と、パソコン脇の小さなライトの光によってのみ照らされている薄暗い豊川悦司のアパートの一室には、通り過ぎる電車のけたたましい音が、音として鳴り響き、その無言の空間においては、パソコンのボードを「つっつっ」と叩く音と、送信ボタンを「カチっ」とクリックする音とが、ただひたすら無機質にゆれている。
小池栄子と豊川悦司、彼らは「しゃべる」という行為を制度的に禁じられている。残業を押し付けられた小池栄子は、彼氏とのデートのために残業を押し付けるその女子社員、平栗里美に対して「しゃべる」ことを禁じられた存在である。
そこで小池にはせいぜい「なんか用事あるの?」という平栗のぶしつけな問いかけに対して「べつにないけど、、」といった程度の反応しか許されておらず、そもそもそんな反応すら平栗里美は聞こうともしない。
平栗里美に対する残業帰りのタクシー代である12470円の請求もまた、「しゃべる」ことを禁じられている小池栄子にとって当然のように進行はせず、小池はレシートを、結局はコンビニのゴミ箱の中へ捨てることになるだろう。その時、左手で丸められたタクシーのレシートの出す「クシュクシュ」という耳障りなまでの大きな音のゆれは、血に染まるキャッシュカードで金を引き出した豊川悦司の、左手で丸められた「1027」という暗証番号が書かれた血に染まった紙切れの出す「クシュクシュ」という音の揺れに、そして右手で握り締められた札束の「クシュクシュ」という音声に、剥き出しの振動として呼応している。
仲村トオルの法律事務所へと通じる、場違いなまでに美しい階段を降りる時に鳴り響く小池栄子の足音は、「しゃべること」を禁じられた人間の発する裸の音もであるだろう。
冒頭の殺人のシークエンスにおいて、被害者の井上宅の玄関からトラックバックして引かれたカメラは、次のショットでは、夜の事務所で手前に歩いて来る小池栄子を後退移動で捉えたカメラの動きと呼応し、また、初めての手紙と結婚の申し込みをした三通目の手紙を書いている小池栄子から引かれたカメラは(或いはズームで)、独房でその手紙を読む豊川悦司へと接近するカメラの動きと何かしら呼応しているし、二通目の「声を聞かせて下さい」と手紙を書いている小池栄子のシーンでは、逆にカメラは小池へと接近し、それを読んでいる豊川からカメラは引かれている。
剥き出しの音と剥き出しのカメラの動きとが、「しゃべること」を禁じられた者たちの空間に揺れ続けている。
バイトの人間から「どうせ予定など無い人だろうから」と仕事を頼まれ、いやとは「言えない」豊川悦司もまた、しゃべることを制度的に禁じられた者であるだろう。そうした彼が、ローアングルの曇天を背景に、ふらふらと階段から路地へと舞い上がり、松本宅のドアを開けようとして果たせず、次の殺人宅を物色している路上ですれ違いざま中年の主婦に対して発せられた「こんにちは、、」という、場違いなまでの律儀な声で発せられたその「声」は、まるで助けを求めているかの如き淋し気でありながら、そしてちっとも「会話」なるものを期待せず、また、決して求めてはならないという声でありながら、しゃべることを制度的に禁じられた者から発せられたこの「声」は、断じて消え入りもせず、ハッキリと「こんにちは」と、発せられる生々しい「振動」は、その露骨さゆえに、通りすがりの者をして「えっ?」と驚かせる。そこにはいかなる意味においての「コミュニケーション」も成立してはいないからだ。
彼らにとって「しゃべる」という行為は「メッセージの内容」という「利益」を伝達する行為ではない。豊川の足元へと転がったサッカーボールを取りに来た子供に振り上げられた金槌もまた、「殺す」という「利益」へと向けられた行為ではない。彼らは「しゃべる」ことで、そして「殺す」ことで、得られるはずの通常の「利益」を得ることを制度的に禁じられた「外部」の人間たちなのである。だからこそ、彼らのナマモノだけが、ひたすら「声なき声」としてゆれ始めた時、私はその「ゆれ」すべてが剥き出しの「振動」であることの驚きのもとに、時間を忘れ、ひたすらスクリーンに引き寄せられるのだ。この映画は紛れもなく「ゆれて」いる。
顔でいうならまた彼らの「顔」は、「声」と同じように制度から除外され、笑うことを制度的に禁じられた彼らの笑顔は、ひたすら表層に露呈した反心理的な混沌(ゆれ)に他ならず、それに接した者たちは、制度の中で生きてゆく限り、間違ってもその「笑い」を「笑い」として受け容れてはならず、また、拒絶することが「理性」として生きてゆく唯一の道なのだ。
そもそも現代のこの時代に、しゃべることも許されず、携帯電話も禁じられ、部屋にはパソコンもなく、メールも禁じられ、笑うことも許されず(陽水なら『夢の中へ』と誘うだろう)、というこの女に対して、「許されたこと」といえば、独り言とともに、ひたすらにただペンを走らせ「ゆらす」こと以外に何もない。
彼女はひたすらペンを走らせ、獄中の男と揺らすこととしての「コミュニケーション」をはかろうとする。これはまさに、「しゃべることを禁じられた者たち語」ともいうべき言語の揺れであって、ペンの紙にこすれる音そのものが、そして声に出して手紙を書く女の声そのものが、メタレベルのコミュニケーションとして振動しているのだ。
こうした数々の剥き出しの音(ゆれ)は、監督の万田邦敏と、録音技師である臼井勝との、密接な関係によって紡ぎ出されたものだと容易に想像することができる。
■「らしさ」からの逃避
第一の手紙の返事をもらった女は、弁護士の仲村トオルと、植え込みの木々が場違いなまでに美しく聳え立つ面会所の建物の玄関の辺りで鉢合わせする。
豊川から返事を貰い、一向にしゃべらない豊川に苛立つ弁護士に対して勝ち誇ったような「笑み」を浮かべる娘のその「笑み」もまた、嬉しい時には笑い、という制度の中から亀裂し「外部」へと流れ出した怖ろしい「ゆれ」である。
女は、弁護士の誘いで豊川の兄である篠田三郎のいる群馬まで同行することになるのだが、その間、街路樹の一本道と、車中のフロントガラスに反映する街路樹、篠田と会うホテルを外から撮ったロングショット、そしてホテルの中のレストラン(レストランの窓ガラスの外景は露出を真っ白に飛ばし気味にしていてかすかにしか見えない)、そして黒い雲と対角線を電線で覆われた人気の無い農道など、この群馬のシークエンスからは、「群馬らしい」背景はまったく排除され、ひたすらローアングルのバックに映し出される曇天は、「季節感」という「外部」にまったく従おうとはしない。
そもそもこの映画はこの「群馬」に限らず、「季節」という「外部」が徹底して排除されている。
OLたちは半袖の制服、そうかと思えば小池栄子はカーディガンを羽織ったり、また脱いだりして目まぐるしく衣装を変化させ、弁護士はレインコートを着たり脱いだり、季節はまったく「暑く」も「寒く」もない。初めての公判を傍聴する直前、雨の中、傘をさした小池栄子が、豊川が逮捕された河原のブランコを見ているショットにおいても「雨」は、黒澤明の「七人の侍」のような「粒」として露呈することを禁じられ、まったく無色透明のモヤのかかったような画面によって処理されている。さらに小池栄子がふと公園へと立ち寄ったシーンにおいて、パンアップによって捉えられた大木は、葉がまったく風に揺れていない、まさに「無色」の木そのものとして「ゆれて」いる。群馬の農道で、大きくロングショットへと引かれた画面の下半分を覆っている稲穂にしても、殆ど風になびいてはおらず、篠田三郎とのシークエンスの窓の外にかすかに見れる木々もまた、まったくと言っていいほど風に揺れていないし、終盤、仲村トオルにプレゼントを渡したあとに歩道から大きく引かれたロングショットにおいても、周辺の木々たちはまったく不動のままで、風通しによる清清しさなる季節感を遮断している。つまり「ゆれて」いるのだ。
「ほんとうらしくない」のは季節感だけではない。モンタージュにしても、場所にしても、
この映画は徹底的に「ほんとうらしくない」。
序盤の殺人のシークエンスで帰宅した娘が家の中へ引きずり込まれるシーンの処理は、①家の中から飛び出そうとする娘のバストショット→②娘の運動靴のクローズアップ→③髪を引っ張られている娘のクローズアップ→④娘の苦悶の顔のクローズアップ→⑤閉まった玄関のドアのショットを外から、という五つの、異様なまでに速いショットの連なりによって「分析」されており、また、逮捕直前の河原で豊川が携帯電話を川へ向って投げるシーンにしても、まずカメラは豊川の真上から引かれ、そして豊川の左側のロングショットへ、そして豊川が携帯電話を左手に持ち帰る瞬間、一瞬カメラは豊川の真上へもう一度変化し、すぐまた左のポジションへ、そして携帯電話を投げる瞬間、後方からのロングショットへと切返され、そしてそこから豊川の背中へともう一度寄るという、不必要ともいえる「分析」によって処理されている。
通常モンタージュの「分析」というものは、一連の運動を心理的に分析して、我々に判りやすく、そしてショットのつなぎが判らないような「透明感」でもってつなげてゆくというのが、古典的デクパージュなり、カッティング・イン・アクションというものの趣旨なのだが、この作品のモンタージュは、「分析」というよりも「分断」であり、時間の「連続」と言うよりも「引き伸ばし」であって、そこでは「透明感」によって不可視であるべきショットのつなぎが「露呈」によって可視化してしまっているのである。少女を家の中へと引きずりこむシーンのカットの感じなどは、極めて「ヒッチコック的」であって、それはショットのつながりを「隠す」のでなく「見せる」ものに近い感覚なのだ。
或いは篠田三郎が「もう、勘弁して下さい」と、深々と頭を下げて立ち上がる瞬間、カメラは篠田のバストショットから大きく引かれて、三人を画面に取り入れたロングショットになる。立つ→引く、の、典型的なカッティング・イン・アクションであるが、私はこのつなぎを、何か違和感をもって見ていて、つまり「何をするつもりだろう」と見ていると、次の瞬間、小池栄子が急いで立ち上がって、するとカメラは今度は小池と仲村のウエストショットあたりにまた寄って、何をするかというと、小池が深々と篠田三郎に向って頭をさげるのである。
つまり、ここでもカットが「露呈」している。「揺れて」いるのだ。言い換えるなら、「カット」というものが、悉く「つなぎ」から遊離して、カットのためのカットではなく、ショットのためのカットになっているのである(だからヒッチコックは凄いのだが)。
結婚の件について仲村トオルの法律事務所の応接間で話をしている小池栄子が、ふと窓際へ移動するシーンであるとか、或いは「では、お願いしますね」といってドアへと接近していくショットについても、カッティング・イン・アクションによって「分断」されていて、その感覚と言うのが、古典的なカッティング・イン・アクションにおける「透明」ではなく、まったくもって「露呈」そのものなのである。ショットとショットとが違和感なく「つながれる」のではなくて、両者の関係が「剥き出しになって揺れてしまう」のだ。
ポツンと場違いにも河原に置かれ、豊川悦司が報道陣と対することになるブランコにしても、幾多の使用によって地面の草が削られ土が剥き出しになっている有様が、何か「うそだ、うそだ」と囁いてやまないようであるし、拘置所の面会室へと続く天井の低い蛍光灯の配置された薄暗い通路は、その面会室のある建物の玄関のモダンで整頓された感じとは余りにも不釣合いであるし、法律事務所の階段の空間の余りにも美しい感じもまた、どう見ても「らしくない」。「ゆれて」いるのだ。
「恐いのはね、、人を殺しても何も感じないことなんですよ、、」という豊川の声、それから幾度か切返されカメラと持続の中で「私はまた人を殺します!、」と、何ともいえない感じでもって震えながら仲村トオルに向き直り見据える瞳の豊川の声と顔。それに答えて「控訴します、いいですね」」という、仲村トオルの台詞と、それに対して無言で居つづける豊川悦司の音響と顔の醸し出す異様さの露呈は、何度見て聞いても美しい。そしてゆれている。振動しているのだ。普通ならばここで、「では、控訴しません」となるはずが、「控訴します、いいですね」となる、ここでもまた映画は「らしさ」を拒絶し、ひたすら剥き出しの「振動」へと終結しているのだ。
「ほんとうらしくない」ということは、「ほんとう」という、映画の「外部」へと寄りかからないことへの決意である。「接吻」は、季節や場所という「外部」に寄りかからない。「因果」という「物語」を拒絶する。「透明」という「らしさ」もまた受け容れようとはしない。彼が露呈させようとしているものは、ひたすら「ゆれる」ことそのものなのだ。
例えば、人がこの映画を見て『あ、群馬だ。ここ、行ったことある』というような共感を覚えることによってそれを「良い映画」と感じるとする。するとその映画は「群馬へ行った」という人々の過去の記憶(=映画の外部)の力に甘えていることになり、決して「ショットの力(ゆれ)」によって驚かせた訳ではないことになる。「季節」にしても同じことだ。映画の「外部」へと寄りかかる映画は、原作、季節、場所、風景、歴史、メッセージ、道徳、猥褻、等等、、、ショットの力から逃避したあらゆる「外部」を利用して寄りかかる。(鈴木清順の映画は季節を拒絶する、というような蓮實重彦の批評は、こういう趣旨のことを言っている。《と言ったところで「蓮實信者」にはどうしたことかこうした話がまったく通じない》)。
そうした点で、この「接吻」は、まさに映画の「内部」によって「ゆれる」力を持った紛れもない傑作である。
今回封切館に書いた「歩いても歩いても」の批評と見比べて頂きたい。
さて、話を戻そう。
■視線の逆転
群馬から帰った女は、篠田から手紙をもらい、二度目の手紙で獄中の豊川へ、群馬行きの報告をする。そして「あなたの声を聞きたい」と書く。女が聞きたいのは「声」であって「メッセージ」ではない。
次の法廷で女は初めて、最後に言いたいことは「ありません、、」という男の声を聞き、微笑み、刑が確定したらもう面会できないから結婚をしましょう、と、男へ三度目の手紙を書く。ここで二人は初めて面会室で顔を合わせる事になる。
二人は見詰め合う。
ここに至るまで、この映画の中で、二人は一度だけ見つめ合っている。それはアパートの一室のテレビで初めて事件を知った時、テレビの中で微笑む豊川と、テレビを見つめる小池への構図=逆構図による切返しショットによる見つめ合いである。
そこでは構図=逆構図の切返しによる「見つめ合い」がが7回反復されている。これを「運命の出会い」なるものに決めるかどうかは別にして、だが少なくともこの「フェイク」以降、映画は二人の見つめ合いの映画ではなく、小池栄子からの一方的な「見つめる映画」として進行してゆく
女は、最初は傍聴席の後ろから二列目から、そして公判が重ねられるにつれ徐々に前列へと移動しながら、四度目の傍聴で遂に最前列に座り、被告人席の豊川を見つめ続ける。
豊川悦司は女に見られていることを知らない。従ってこの視線は「盗み見」=「窃視」である。この「窃視」という魔物については、次回の成瀬巳喜男論文で、我々は、悪夢にうなされるくらい多くの「窃視」を細部にわたって検討することになるので、ここではサワリ程度に抑えておくが、「窃視」という演出のキーポイントは、「見られている事を知らない者」の醸し出す「ほんとう=ゆれ」に他ならない。
第二回目の法廷では、傍聴席から被告人席の豊川を「窃視」している小池を、弁護士の仲村が「窃視」するという、見事な「窃視の三角形」が作り出されている。これもまた不可思議に意味ありげだが、初めて豊川と面会するまでの女は、男を「一方的に見つめる窃視の女」であったことを我々は肝に銘じておくべきだろう。ところが、そうした関係が徐々に逆転し始める。
事務の職場を自主退職し、石鹸工場で、ベルトコンベアーから運ばれてくる石鹸の分配作業をして働いている小池は、仕事に疲れたせいか、二回目の面会のとき、豊川から小池へ向って左へパンするカメラに合わせるように、思わずあくびをしてしまう。この時流れてくるピアノ曲のメロディと相まって、ここは何度見ても泣いてしまう不思議なシーンなのだが、しばらくすると女は、肘に顔を乗せるようにしてその場で眠り込んでしまう。
ここで初めてこの映画で、豊川悦司が女を「窃視」する瞬間が訪れる。
女は群馬での仲村との会話でも言われたように、自分の将来について思い悩むことをやめ、今に生きることに集中することを決意している。そうして、過去や未来に囚われず「今を生きる」女を、豊川は「窃視」する。眠りによって「見られている事を知らない顔=ゆれ」を「窃視」するのだ。
その夜、初めて豊川は殺人現場の悪夢にうなされ、落ちたヤカンの音に慌てて目を覚ます。
「制度」というものの「外部」へと向けて女と共に共闘するはずの豊川が制度の「内部」へと吸引されてゆく。
三回目の面会で女は、マスコミに付け狙われている事を豊川に報告し、「戦闘開始だね!」と生き生きとした表情で言い放った。「生き生きとした、、、」、まさに生きている人間の活力に満ちた囚われない力に満ちた顔で言い放った「戦闘開始だね!」。
その夜男は、殺した家族の亡霊に襲われる。
四度目の面会はブランコの話である。公園で少女とブランコをした話を楽しそうに語る女は、両肘を付いてその上にアゴを乗せ、瞳を右にそらしながらブランコの様子を豊川に語っている。女の瞳はここでもまた、二回目の面会における「眠り」と同じように、豊川を見つめていない。瞳を敢えて右方向へと軽くそらしている。この視線の「ずれ」は、豊川から小池への一方的な視線を作り出すものとして決定的に重要である。女は瞳をそらしてブランコの話に「集中」し、男の視線を忘れているかのようである。そんな女の活き活きとした「見られている事を知らない顔(ゆれ)」を、男は「じっと」見つめている。
男はその直後、独房へと続く天井の低い回廊で立ち止まり、泣く。
制度の外部へと逃走しようとする男と女がいる。二人は見つめ合い、その後、女が一方的に男を見つめ続ける。女は男に手紙を書き、面会し、そのあと、今度は逆に、男が女を一方的に見つめ始める。「制度」という「かたち」を突き破り、生き生きと「生=ゆれ」を悦ぶ女を見つめ続けた男は、変化し、女の思惑とは裏腹に制度の「内部」へと引き戻されてしまう。それが「良い事」なのか「悪い事」なのか、映画は明らかにしていない。仕事に疲れた充実の中で眠る女、「戦闘開始だね!」と生き生きと宣言する女の顔、少女とのブランコを物憂げな疲労の快感の中で瞳を右へそらして語る女の顔、そうした人間の裸の「顔」を見つめ続けた男は、少しずつ「人間性」なるものを取り戻して行く。それが「良い事」なのか「悪い事」なのか、映画は語ろうとしない。ただひたすら映画は「ゆれる」を反復するのみである。
露呈しているものといえば、制度の外部へと向おうとする女の生き生きとした顔や姿が、それを「見つめた」男をして制度の「内部」へと押し返してしまうという不条理が、この映画をして見事な「悲劇の誕生」たらしめているという事実である。感動的なのは、それを露呈させているものが、ひたすら「しゃべる」事を禁じられた者たちによる「声なき声」の発する痛ましいほどのひりひりとした振動だからなのだ。この「接吻」のスクリーンは、紛れもなく揺れている。
▲三角
小池と豊川と仲村、この三人が同一の空間に集うのは、法廷とラストの面会室の二箇所だけだ。
法廷では常に、弁護人席、被告人席、傍聴席、という「三角形」の配置の中で三人の関係は進行してゆく。
最後の面会室でも同じように、三人は、いつものように、三角形によって配置された空間の中へ収まっている。そこへ女が、ゆっくりと、「ハッピー、バースデー、トゥーユー」と歌い始める。人類史上、このゆったりとしたリズムで「ハッピー、バースデー、トゥー、、ユー、、」と歌った人類は、この女とマリリン・モンローしかいない。
次の瞬間、それまでの三人のかたちとしての「三角形」が、ものの見事に崩壊する。そして映画は「ストップ」するのだ。
女は「なぜ」弁護士にキスをしたのか、などと考える余裕は私には与えられない。ただひたすら口をポカンとあけはなち、この映画のラストが女の凄まじい「叫び声」という、剥き出しの「音」によって終結し、その振動が、、とてつもなく私の身体を「ゆらした」ことに、わけも泣く溢れ続ける涙を拭うのみだ。
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